小出家

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小出家は藤原南家の末裔と言われています。家紋は2種類あり、定紋は“額”(左)、替紋は“亀甲に小の字”(右)。

藤原為憲が“木工助”に任じられ、“工藤大夫”と称したところから“工藤”と言う名になります。その後、そのまま工藤氏から小井弖氏に至る説と、工藤氏からいったん二階堂氏を経て小井弖氏に至る説の2説がありますが、いずれも現在の長野県伊那市にある小出というところへ移り住み、その後胤が尾張の中村に住んだということになっています。

なお、小出家には諏訪神社の神官系の系統もあるとのこと。定紋の“額”は、おそらくここから来ているのではないかと言われているようです。

下は、小出氏略系図(武家・大名家)です。非常に見づらいですが、ご了承下さい…。

 

ここでは、新潟県妙高村が発行した“妙高村史”の記述と対比させて書いていきます。

・(村史)源平時代の武将であり、豊臣・徳川に仕え、豊臣氏滅亡後に樽本に逃げ込んだ…
→平家の落人であったということは、私も聞いたことがあります。これは、小出家が元々藤原家であったことを考えると、どことなく想像はつきます。(藤原為憲の母は桓武平家の祖、高望王の娘。)しかし、豊臣氏が滅亡したからといって、小出一族は完全に樽本の地へ逃げ込んだというわけではありません。これは今後の項へ被りますので、そこで詳しく説明します。

・(村史)小出家の祖である秀政は秀吉と同郷で、園部藩主となった。秀政より3代目の吉親が一族を連れて樽本へ来て、住み着いた。過去帳にある最古の年が1630年ごろ、吉親(よしちか)とほぼ同年代であり…
→確かに、小出家の祖といえる小出播磨守秀政は、秀吉と同郷(尾張中村)でありましたが、はじめは直属(秀政の妻が、秀吉の母である大政所の妹であるため。つまり、秀政は秀吉の叔父)で、様々な要職を歴任したのちに紀伊水道の押さえとして、岸和田城主に任じられます。そして城郭の整備を行い、小出家は江戸時代に入ってから3代続きます。なお、秀政は秀吉の子である秀頼の養育係に任じられており、秀吉が没する際にも秀頼の補佐を頼まれています。また、吉親自身も園部藩主ですので、実質的に樽本の地へ行くことは不可能であると考えられます。ちなみに…吉親の没年は1630年代ではなく、1660年代です。(確かに、過去帳にあるとされている記述の年代は、吉親のいた時代と被っていますが…)

・(村史)小出家はどういう事情か、大坂夏の陣では徳川勢についている…吉親は信濃守に国替えをしている
→小出家は、大坂の役に出陣していますが、慶長19年(1614年)12月の冬の陣において既に小出吉英が属しています。そのため、“夏の陣”から属したという言い方は不適当と思われますし、おそらく途中で寝返ったとしても時代は武断政治の頃、それも豊臣家一門として存在する小出家をそのままにしておくわけが無いと思われます(→改易や減封・転封など)。
また、吉親は確かに信濃守となっていますが、この頃の大名が名乗る“○×守”という国司名は、既にニックネーム化、権威付けの名目になって
おり(武家官位)、信濃守になったからといって信濃国に入ることはまずないはずです。(→参勤交代などの諸制度があるだけでも藩財政が大変なのに、関西と江戸を往復し、さらに関西or江戸と信濃を往復するような財力はないはず。また、基本的に大名クラスの人間が国司に任命されるということは、まず稀である。)また、この頃の大名の“国替え”は“転封”といわれ、例えば岸和田藩から出石藩へといった、領地替えになります。

ここで、小出家の(主な)所領と経緯を確認したいと思います。まず、はじめから持っていたのは和泉・岸和田城(1585年)、但馬・出石城(1595年)です。岸和田城(岸和田藩)は秀政、秀政の長男吉政、吉政の長男吉英(よしふさ)と続き、1619年に出石へ移封となります。また、出石城(出石藩)は吉政、吉英、吉政の次男吉親と3代続き、4代目に岸和田から移封された吉英が入り、その後9代目の英及(ふさつぐ)で無嗣断絶となります。吉英が2代藩主であったとき(1604年)には有子山城を廃し、麓に出石城を建設しています。
ちなみに…小出家は家名存続のため、秀政・吉政らは西軍に、秀家(吉政の弟)は東軍に、それぞれ属するという形で関ヶ原の戦いに臨みますが、これが功を奏し、秀家の活躍により西軍に加担した秀政・吉政は許され、所領は安堵となりました。(ちなみに…秀政は大阪城で豊臣秀頼と共にいた。吉政は田辺城の攻撃に加わった。秀家は本戦に出陣していた。)

余談で…小出秀家は、父の秀政よりも先に亡くなり、徳川家康はその死を惜しみ改易をせず、家督を弟の三尹に相続させることを許可しています。そして、その死については、旗本ながらも関ヶ原の功臣として『徳川実紀』にも記載されています。ちなみに、大隅守三尹は、この後1万石となり、陶器藩を立藩した。(陶器藩は、4代目の重興で子供がいなく断絶。その後再興はされたものの、旗本扱いに。)

さて、ここで吉親がいなくなってしまいました…。別に、亡くなったわけではありませんし、樽本に逃げ込んだわけでもありません。出石に吉英が戻ってくると、吉親は丹波の園部へ移ります。そして、園部城(陣屋形式)を築城、園部藩を立藩し、その初代藩主になっています。しかし、9代目英教(ふさのり)は他家からの養子であるため、小出家本来の血筋とは離れます。そして、この園部藩小出家は幕末まで続き、明治維新後は子爵となり、現在は14代目の方が東京都武蔵野市に住んでいらっしゃるそうです。

つまり、秀政や吉親らが直接樽本の地を踏むことはほぼ、というよりは確実に不可能であり(吉親の墓は都内をはじめ、園部にもある)、兄弟など一部の血縁者が御家再興の機会を狙うために、身を隠したのではないかと推測されます。なにより、小出という苗字で家紋が“額”、さらに木賀家と同様に刀などの武器を持っている、この3点は武家それも豊臣家一門である小出家を示すものではないかと思われます。
なお、あまり詳しくは書きませんが…小出家は外様大名家の部類ではあるものの、大名家・旗本家ともに幕府の要職に就くことが多々あったようです。例としては…出石小出家の分家として、現在の兵庫・和田山で旗本となった土田(はんだ)小出家というのがありますが、ここの6代当主となった大和守秀実は、慶応年間に樺太における国境交渉の幕府正使としてロシアへ派遣された実績があります。(しかし交渉が失敗、のちに暗殺される。)

なお、上樽本小出家は総本家のほか、私の家を含んで5軒あります。また、小出家に関する古文書の存在は、現物確認は取れていないものの、存在している可能性が非常に高くなりました。(→木賀本家が所有していたようで、曽祖父が古文書類をある程度区分し、纏めて入れておいたであろう茶封筒に、油性マジックで書かれた「小出家」の文字が見られました。したがって、絶対的につい最近まで存在したということです。)

土路地区に“保科”という苗字があります。実際に、土路の保科家なのか、はたまた別の保科家なのか、詳しいことを調べていないためなんとも言えませんが、小出家と保科家というのは、武家時代につながりがあるようです。
→出石藩2代・4代藩主の吉英の妻が保科正直の娘であったり、5代藩主吉重の弟正英(まさふさ?)が、上総・飯野藩主保科正貞の養子となっていたりということがあるようです。(飯野藩主保科家の家紋は“並び九曜”という紋です。その他、“梶の葉”という紋も使っているようです。)

また、小出家の氏神?として祀られている観音様(これは上記の上樽本小出家5家が共同管理)についても、信濃方面からのものといわれているようです。一説では須坂とも言われていますが、はっきりした手がかりがありません。ちなみに…須坂に程近い(というより須坂市との境界近い)ところ、長野市内に保科姓発祥の地があります。そこの近くの地名に“小出”という文字が見られます。

さらに、下写真の手前、灯篭のようなものが見えますが、ここに“正観音 元禄十五年 壬午(みずのえうま/ジンゴ)八月吉日”と刻まれています。これから6年前の元禄9年に、出石藩の9代藩主小出英及が3歳で死去、出石小出家は断絶しています。しかし、この死に関しては諸説あり、どれが本当なのかがあまり分かっていないようです。また、偶然というべきなのか何なのか、陶器藩の小出家も元禄9年に断絶しています。もしかしたら、このような流れの中でどちらかの小出家が樽本の地にたどり着いたのかもしれません。(ただし、陶器藩は分家のため、確か家紋は“二八額”だった気がしますが…)

ちなみに…年代的な詳細は分かりませんが、現在の(私の系統の)家ができる以前に住んでいた屋敷の跡地が「五左ェ門屋敷」と呼ばれていたそうです。上記の系図にある、政長と言う人物(初期小出家)がいますが、この人の正式?な名前がなんと「小出五左衛門尉政長」。
現在の家は、築350年ほどと考えられ(あくまでも口碑)、これで逆算して推測するに、この「五左ェ門屋敷」が建っていたのは、少なくとも明暦年間以前となります。
ということは、初期小出家が入植したのであろうか…?
※「五左ェ門」の表記は、今調べられる一番古い戸籍によりました。


↑樽本にある“観音堂”

↑観音堂に祀られている“観音様”

 

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